※この記事は脳をやられてしまった人の書いた記事です。戦国乙女について書いていますが、ほとんどが楽曲「もっと、ずっと、ぎゅっと」について書かれています。
※文中に夢妄想であるとかカップリングの要素も含んでいるのでご注意ください。いわゆる何でも許せる人向けの内容です。
前置き
聞いてますか、「もっと、ずっと、ぎゅっと」。のっけから何を言い出すんだという話だがいい楽曲はいいのだからいつ語ってもいいのだ。
戦国乙女ファンの皆さんにはお馴染みの楽曲なので特に解説も要るまい……と思ったが、この楽曲が初収録された戦国乙女~花~は2017年の機種なのでこれを書いている時点から見ると既に6年以上前だし、2023年10月現在、公式で買えるCDには収録されていないので念のため軽く説明をしておこう。
戦国乙女楽曲の集大成とも言うべきアルバムである戦国乙女6のサウンドトラックに、この「もっと、ずっと、ぎゅっと」が収録されているのだが、これは売り切れている。細かいことは省くが他のCDにも収録されているが、恐らく再販可能性が高いのはこれだろう。
戦国乙女というコンテンツにおいて、キャストが歌唱する楽曲というのは魅力の一部であるからしてこの現状は大きな機会損失を発生させていると言っていい。スロットの戦国乙女4がどうやら大ヒット御礼状態である今、これは非常にまずい。
あの曲気になる、となっても実機からしか聞けないというのは余りよろしくない。パチンコの方であれば通常時から曲を流せるようになっている、とかそういうことではないのだ。
イヤホン等で聞かないことにはこの曲に入っている(推定)イエヤスちゃんのブレス音が拾えないではないか。イエヤスちゃんのブレス音といえば色褪せないStarry Skyのものが(自分の中では)有名でこれは炯眼のCDに入っているのでそっちは聞けるぞ、とかそういう話ではない。
早くCDの再販をするか、販売でもいいので配信をすべきである。ダメですよ、動画サイトに上がっているからいい、とか言ったら。
実は実機アプリのジュークボックス機能でも聞けるのでそちらの販促としてCDを再販しないのでは、という仮説もなくはないが、公式でそういう案内をしていない以上、多分違うだろう。
まあ聞き方のことは置いておいて、楽曲の話をしよう。長いよ、前置きが。
この楽曲は先ほど書いたように、戦国乙女~花~から収録されているもので、歌唱は徳川イエヤス(CV:千葉紗子)、今川ヨシモト(CV:山本麻里安)、千リキュウ(CV:堀江由衣)による。いわゆる駿河組というやつだ。細かい説明は省くが、この区分けはゲーム版戦国乙女LB、戦国乙女~花~にて登場したものである。
歌詞カードには、作詞:宮崎京一・相良心、作曲・編曲:清水永、ギター:宮崎京一、キーボード:清水永とクレジットされている。戦国乙女5まではかなり常連の制作陣で、あの曲もこの曲もその曲も、という面子である。ただ、戦国乙女関連で宮崎京一氏が作詞にクレジットされているのは唯一⋯⋯だと思う。
ぼくは音楽のことはからきしなのでナントカ風のカントカの薫陶を受けたウンタラチューン、といった小洒落た紹介はできないのでしないが、これはいい曲なのである。
これだと余りにも酷いので少し添えておくと、いわゆるミディアムテンポのカワイイ系楽曲だ。ひと昔前のアニメエンディングの雰囲気がある。
ただ、いい曲ではあるものの、そもそも戦国乙女というのはその名の通り、コンテンツとしては戦をする。ラッシュ中やらAT中に流すのには余り適していないように思う。
まあそういう訳で、この曲は遊技機で流すために作られたものであるものの、CD音源で純粋に音楽として聞くのに適しているのではないか、というのが私見である(この投稿のほとんどが私見である)。
歌詞の解説(でっちあげ)
というわけで本題。この曲の歌詞に注目してみよう。ざっくり言うと、恋する乙女のもどかしい気持ちを表現した歌詞なのだが、なかなかに心が泡立つ内容である。
歌詞を全文書いてしまうと色々とまずいので全文は各々歌詞カードかなんかで読んで貰うとして。どんな状況を歌っているのか、歌詞に表現されていない部分は可能性の高そうな状況を選択して補完しつつ、書き出してみよう。
まず、「私」は「君」に手を取られて波打ち際を歩いている――。
のっけから歌詞に書いていない状況である。だが、これには根拠がある。しかし、なぜそうなるのかを説明すると結局歌詞の最後まで説明する必要があるので、いったん落ち着いて読み進めて欲しい。
「私」は「君」に手を取られて波打ち際を歩いている。砂浜に足を取られて転びそうになったときに、「君」が咄嗟に手を取った形だ。
何となく手を繋いだまま少し歩く。そこで「君」は問う。そういえば、さっきから少し顔が赤いのでは、熱でもあるのかと。「私」は日差しが熱いせいだと答える。
日陰に行こうかと提案する「君」。「私」は大丈夫、もう少しこのまま歩こうと答える。
――日陰に行ってしまったら、顔が赤いのを太陽のせいにできなくなるから。だって「君」という「真夏の太陽」に照らされているのは変わらないから。
手を引く必要はもうなくなった、とばかりに繋いでいた手は離れる。――もっと手を握っていて欲しかったのに――。そのまま二人は波打ち際を歩く。
――この身体の火照りと胸の高鳴りは夏の日差しの下を歩いているからなのか、それとも……。本当は分かっている。
日もそろそろ落ちようとしている。
――何もしなかったらこのまま今日が終わり、また、次の機会を待ち続けなければならない。そう思うと、自然と足が止まっていた。
足を止めたのに気付いて「君」が振り返り、どうかしたのかと案じて問いかける。「私」は「君」だけをじっと見詰める。
暫し、世界には波の音だけが響いていた。
――もう待てない。自分で言うしかない。こっちに来て、と。もっと。もっと。
距離が近くなる。手を広げて、と「私」は言う。そして、一歩踏み込んで「君」にしがみつく。
「抱き締めて」の声に呼応し、軽く抱き締め返される感触。「私」は腕の力を更に込めてねだる。もっと。もっと。もっと。ずっと。ぎゅっとして。
とまあこんなストーリの歌詞なのだがいや甘い、これは甘い。ちょっとだけ余韻に浸りながら解説しよう。
太陽が沈まないよう願うのは、赤く染まるほほを隠したかったから、というのは仮説に過ぎないが、可能性の高い推論だと思う。なかなかに洒落た表現だ。
どころか、この太陽は実際の太陽だけではなく、「真夏の太陽」からの視線とぬくもりを感じる、という歌詞の登場により、「君」のことをも指していることが示唆される。洒落た表現かつ、ダブルミーニングにもなっているわけだ。これは素晴らしい。
途中までは、実際に身体的接触があるのか、それを願っているだけなのかという部分については分かりにくい。
しかし、歌が進むに連れ、もっとぐっとこっち来て、と要求があけすけになってくる。気持ちも止まらないらしい。
このことから、一番のぎゅっとの時点では手を繋いでいて、落ちサビ(少し楽器隊が静かになるあたり)のぎゅっとの時点では抱き締めあっている可能性が高いと仮定した。
しかし、前述のでっちあげストーリーの中には作中屈指の解釈困難フレーズ「恋の戦」についての記述はない。
このフレーズを解釈するためには、ここでストーリーをいったん中断し、もう少し論じる必要があるのだ。
恋の戦
さて、歌詞の世界における「私」とは誰なのだろうか。
冷静に考えれば、歌詞の主人公と歌っている人は違う。「これは実体験を元にした歌です、聞いてください。もっと、ずっと、ぎゅっと」みたいにシンガーソングライターが歌い始めたらへーそうなんだーとはなるが(本当とは限らないが)。
他にも、「これはキャラソンです」と制作意図が公開されているのであれば歌詞の主人公は歌唱者、と確定することができる。
ただ、この楽曲の場合製作者の意図は一切公表されていない。が、この曲の主人公が誰であるように思わせたいか、という意図を探るのであれば大きな手がかりがある。
そう、歌詞そのものだ。そしてここで手がかりになるのが他でもない「恋の戦」というフレーズなのである。
もちろん、これが次のようなパターンの場合は余り手がかりにはならない。
「新規楽曲Cの歌詞の初稿、拝見しました。恋する乙女のもどかしい気持ちを表現した素敵な歌詞をありがとうございます。ほとんどこのままでいきたいと思っております。ただ、一点、弊社上層部からの要望がございます。コンテンツの性質上、『戦』の要素を入れておきたいのです。差し出がましいようですが例を挙げるとすれば、落ちサビの最後の部分を『恋の戦君と駆けぬけて』にする、といった具合でしょうか(略
「分かりました、それでいいです
そこはかとない悲しさを感じる想像なのでこういうパターンは排除しておこう。
さておき、恋の戦を駆けぬける、という文言を解するのであれば例えば特定の相手を好きになった同士が、どちらが選ばれるかライバルとして争いながら目まぐるしく時を過ごしていくようなイメージがある。ものの、どうもそういう雰囲気ではない。
もちろん、一対一の恋愛において先に相手から告白させるべく競うことを「戦」と表現する向きもあるが、この歌詞世界においてはこれもそぐわないだろう。
恋の戦という文言は通常の文脈で解することができないのである。
さあ、ここで先ほどのストーリーに戻ろう。夕暮れの波打ち際で抱き締めてと「私」が「君」にねだり、強く抱き締められたところから再開する。
抱き締めてくれたものの「私」は気付く。これでは何にもなっていないと。わざわざ言葉にせずとも伝わっていて、「君」はそれに応じてくれたと言ってもいいかもしれないが。
――それでも。大事なことは言葉にしなければ。
「離れないでいてください」
状況的に意図が伝わらないことを言ってしまい、言葉を重ねる。
「えっと……その……この戦乱の世を共に駆けぬけてくれますか」
――これも、余り進んだとは言えない。せめて、この恋の戦も共に駆けぬけて、とでも言えないのかと。いや、それも意味が分からない……。何と言えばいいのだろう。
「えっと……えっと……」
次の言葉を紡げずに動転してしまっていると、「君」は優しく、大丈夫、分かっていますと言う。
――良かった。でもやっぱりこのままでは駄目、ちゃんと言わないと。
抱擁を緩め、改めて立ち直して「私」は「君」の目を見る。
――ああ、やはり暖かな視線だ。
「■■■■」
はいっここまでー!! あー、これはもうキスしますね⋯⋯。
まあそういう訳で恋の戦というのは苦し紛れに出てきた文言ということが分かった。こじつけてるかもしれないが分かったのだ。
仮に「恋の戦」というフレーズがない場合、この曲はどこの誰でもが主人公になってしまうところだった。町娘Aが主人公では、「戦」というフレーズは出て来得ないのである。この歌詞の主人公は戦に身を置く者、つまり戦国乙女の一人なのである(本当だろうか)。
乙女の誰かの気持ちを歌ったとまではいかないが、「恋をしたらこんな風かもね、と想像するといいよ」とガイドラインを引いてくれているのである(たぶん)。
そう、だからこの「私」は戦国乙女の誰か、具体的には、歌っているイエヤス、ヨシモト、リキュウの誰かとして考えてくれて良いよ、ということなのだ(結論ありきの考察)。
正直、使命を帯びた乙女たちが恋をするだろうか?という解釈の問題はあるのだが、まあそこはそれということにしよう(投げた)。
「君」
そうすると、「君」は誰なのかという問題が生じる。ここを明言すると戦争が起きるので各自、己が心に信ずる相手を想定すると良い。登場人物の中でつがいになる相手を想像するもよし、俺くん・私ちゃんといった夢妄想をするもよし、だ。
俺くん・私ちゃんの場合はどうしたら戦国乙女の世に存在しつつ乙女たちと関わりを持てるのか難しいところもあるが、それはまあ城に働きに行っているうち、ちょっと海の近くまで出かけるときに身の回りの世話をする役目を仰せつかって、たまたま二人で散歩をするタイミングができたとかそんなとこでいいのではないか。
さて、各々好きな「私」「君」を設定したところで捏造ストーリーを読み返してみよう。なんかこう、更にむずむずしないだろうか。恋、したくなりませんか。
ソロパート
まあそれはそれとして、実際の楽曲の話に戻ろう。
この曲で特筆すべき点は、二人のユニゾンの合間にソロパートが入り、要所で三人ユニゾンをするところである。
まあこれだけだと普通(世の中には全部ユニゾンで済ませるユニット曲も存在するのでそれだけでも凝ってはいる)なのだが、一番と二番でソロパートの入る位置、担当が入り乱れている(サビは位置が固定されていたりもするが)。
パート割をする場合、多くの場合、一番と二番で同じ位置に入ったり、良くてその位置で人が入れ替わるくらいのことが多い(個人の感想です)。サビ意外はソロ回し(リレーのような)で、サビは全員ユニゾン、みたいなパターンもあるので二人ユニゾンが混ざってくるというのも美味しいポイントなのである。
正直相当拘っている。
想像に過ぎないが(この投稿の大部分が想像にしか基づいていないが)、全員分のフルコーラスを収録して一番美味しく聴こえるように混ぜたのではないだろうか。
制作陣に拍手を送りたい。もし存在するならソロ音源三人分ください。くれ。
とにかく個人的な感想なのだが(この投稿の⋯⋯略)、この曲で使われている音域は、三人の声の旨味をよく引き出す絶妙な火加減だと思う。
全員パートで脳が震え、二人パートで脳をかき回され、ソロパートで脳が焼かれるような感じがしている。
内容も相まって破壊力が一番高いのは、二番のサビにある「目を離さないで」である。一番Bメロの「あぁ お願い太陽沈まないで」あたりは無限に食べられる。二番Aメロの「夏のせいにしていたら 何も変わらないでしょ」なんかも胸がきゅっとする。
落ちサビのパート割も秀逸で、三人、ソロ、ソロ、二人、ソロ、二人と入り乱れている。これはぜひステージを見たい(実現できなさそうなのが悲しい)。
まあそんなこんなの色々を考慮し、曲を聴いて脳をやられて欲しい。